YOSHIの青春歌謡曲!!

〜青春時代に聴いた宝物の再発見〜

〜40年以上経って心に届く、遥か彼方の秀樹からのメッセージ!〜遥かなる恋人へ/西城秀樹(1978年11月)

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「遥かなる恋人へ」(作詞:竜真知子、作曲・編曲:馬飼野康二)は、1978年11月25日に発売された西城秀樹の27枚目のシングル。

もう40年以上も前になるのだが、世紀の名バラードと評判高い「ブルースカイ・ブルー」(同年8月25日発売)と国民的ヒット曲「YANG MAN(Y.M.C.A)」(79年2月21日発売)の間にリリースされたためか、いささか地味な印象のあるバラード曲。

オリコンチャートを見ても、週間最高8位、売上数19.3万枚※と、特別ヒットした曲ではない。

※1968-1997オリコンチャートブックによる

しかし、「YOSHIの青春歌謡曲‼︎!」(youtube)の動画再生回数を見ると、西城秀樹の中では「ブルースカイ・ブルー」(7万回)、「君よ抱かれて熱くなれ」(6万回)に続いて、3番目(5万回)にランクしている人気曲なのである。

遠距離恋愛をテーマにしたこの曲。都会に旅立った彼は、遠い故郷に残した彼女が自分にとってかけがえのない存在であることに気付き、彼女の元に戻ってプロポーズする(と思われる)ハッピーエンドなストーリ。

作詞:竜真知子  作曲・編曲:馬飼野康二

「①南の風が雪をとかす頃  あなたの街へと帰ってゆきたい

遠い故郷に残した恋人  あなたは待っててくれるだろうか

こごえた胸に今よみがえるイン・マイ・ハート   まぶしいあなたの愛忘れた日はなかった

春の窓辺の陽だまりのような  柔らかな微笑みをもう一度

長くきびしい冬をのり越えて  あなたをこの手で倖わせにしたい

②都会に向けて旅立ったあの日  あなたは目を伏せ涙かくした

つらい気持ちをわかっていながら  優しい言葉も言えずに別れた

瞳とじれば今よみがえるイン・マイ・ハート   あなたの笑顔だけが支えと気づいたのさ

めざめる朝のぬくもりのような  さわやかなまなざしをもう一度

長くきびしい冬をのり越えて  あなたをこの手で倖わせにしたい

あなたをこの手で倖わせにしたい」


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秀樹が40年以上も前に残してくれたこのバラード曲。改めて聴くと、遥かなる時空間を超えた秀樹からのメッセージのように聞こえる。秀樹は、暖かな陽だまりのように優しく寄り添い、相手に対する思いやりの大切さを誠実な人柄から溢れ出すように教えてくれていた。

ヒデキの歌唱力、また表現力の高さを体感できる正に「隠れた名曲」であり、自分の中では、この「遥かなる恋人へ」が、三木たかし作曲の「ラストシーン」と共に、秀樹のバラードの双璧をなす曲だと思っている。

以下、余談だが、この曲を聴くと、当時、同じように地元に残した彼女の事を思い出す。

高校3年の時のクラスメートだったが、彼女は極めて成績優秀、クラスでもトッレベルで、地元の国立大医学部に現役合格。自分はなんとか都会の大学の工学部に入って、数年間、遠距離恋愛の状態が続いた。普段は文通をし、自分が里帰りした時は彼女の車でデートしていた。

しかし、徐々に文通の回数も減り、いつしか自然消滅してしまった。

同じ遠距離恋愛をテーマとした太田裕美の大ヒット曲「木綿のハンカチーフ」の主人公のように、都会の絵の具に染まってしまい、地元に残した彼女を悲しませていたかもしれない…。

当時、この曲をもっと聴いていれば、彼女に対してもう少し優しく接してあげれた気もする。

清楚な風貌に似合わず、格闘技が好きだった彼女。今まで地元で何度も同窓会があったが彼女とは一度も会っていない。ずいぶんと前に風の噂で、中国地方で医師をしていると聞いたが、現在も幸せに暮らしているのだろうか?

〜日本人の心の古里、みちのくへの郷愁を誘う70年代最強の隠れ名曲!〜北へ向かって/田中美智子(1977年8月)

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「北へ向かって」は、1977年8月5日に発売された田中美智子の2枚目のシングル。

田中美智子と言っても、知っている人はほとん殆ど居ないと思う。小林幸子と美樹克彦のデュエット曲「もしかしてPARTII」の歌詞を提供した「榊みちこ」と言えば少しは分かるだろうか?

だが、田中美智子は、我々のような還暦過ぎのオジサン世代にとっては伝説のアイドルなのである!

田中美智子(現、榊みちこ)は、青森県青森市出身の元歌手・作詞家で、1976年7月、シングル「ひまわり君」で東芝EMIからデビュー。この「ひまわり君」、作曲はなんと「ベンチャーズ」!

ベンチャーズと言えば、60年代~70年代「ベンチャーズ歌謡」として、歌謡界を席捲した。代表曲として、100万枚を超える大ヒットを記録した和泉雅子山内賢「二人の銀座」(1966年)、奥村チヨの「北国の青い空」(1967年)、オリコンで8週連続1位を獲得した渚ゆう子「京都の恋」(1970年)、オリコンで9週連続1位を獲得しミリオンセラーとなった欧陽菲菲「雨の御堂筋」(1971年)などがある。

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1977年8月に、第2弾シングル「北へ向かって」がリリースされる。この曲は、フジテレビの紀行番組「青春紀行」の主題歌となり、田中は番組にもレポーターとして出演していたようだ。

その後、ニッポン放送の人気深夜番組「笑福亭鶴光オールナイトニッポン」(土曜日25〜29時)のアシスタントに抜擢されたこともあって、「北へ向かって」は、この番組の深夜3時頃に良く流れていた。当時はラジオ深夜放送の全盛期、田中美智子の声を聞くため夜更かしをして毎週のように「オールナイトニッポン」を聴いていたことを懐かしく思い出す。当時から、「北へ向かって」の哀愁漂う切ないメロディーが心に残っていたが、後に作曲が昭和を代表する作曲家「三木たかし」と分かって納得。

また、作詞は、女性作詞家の草分け的存在「岩谷時子」。ザ・ピーナッツ恋のバカンス」、岸洋子「夜明けのうた」、中尾ミエ「夢見るシャンソン人形」、加山雄三「君といつまでも」、園まり「逢いたくて逢いたくて」、佐良直美いいじゃないの幸せならば」など60年代の曲が多いが、どれも皆が知っている名曲ばかり。70年代以降では、沢田研二ソロデビュー第1弾で自分の1番好きな「君をのせて」、郷ひろみのデビュー曲「男の子女の子」等の数多くのヒット曲を提供している。

さらに、最近になって知ったのだが、バックコーラスは何とオフコース!この歌がリリースされた頃のオールナイトニッポンで、田中美智子が「レコーディング中に、たまたまレコーディングスタジオを通りかかった事務所先輩のオフコースの二人にコーラスをお願いした」と恐縮しながらエピソードを話していたらしい。

再度、曲を注意深く聴いてみると、確かにこれはオフコース小田和正」の声!!

作詞:岩谷時子   作曲:三木たかし   編曲:高田弘

「初めて会った 人だけど 朝市みようと 誘ってくれた

別れたくない 別れもいいわ

北へ向かって 北へ向かって旅をしよう

ここは心の ふるさとか 果てなく眩しい 青空がある

一人ぼっちが 身にしむのです

北へ向かって 北へ向かって雲が走る

明日はどこへ 泊まるかと 子供が小さな花束くれた

人のなさけに 染まる夕やけ

北へ 北へ向かって鳥が飛ぶ

灯りをつけて 友達に 手紙を書こうか 街に出ようか

なぜか今夜は 人が恋しい

北へ向かって 北へ向かって星が群れる」

失恋してみちのく地方へひとり旅をする女性が主人公。狩人の「あずさ2号」のように別れを忘れるために別の人と行く怪しげな信州ふたり旅ではない(笑)

1番は「朝市」(朝)、2番は「青空」(昼)、3番は「夕焼け」(夕方)、4番は「灯り」(夜)、と旅先での時は流れ、東北の風景と人の心の優しさに触れて、「今夜は人が恋しい」心情になっていく。

冒頭のジャケ写は、青森に多い縄文遺跡の復元だろうか?何故か「みちのく」に郷愁を感じるが、太古の昔、みちのくに日本人のルーツがあったのかもしれない。

昭和歌謡界の両巨匠「三木たかし」と「岩谷時子」による日本人の心に響くメロディーと歌詞、青空のように爽やかな「田中美智子」の声質、大物ミュージシャン「オフコース」によるバックコーラスのサポート、旅番組によるタイアップ等。。山口百恵の「いい日旅立ち」のようなビックヒットの可能性があったと思ったのだが…

しかし、ブレイクには至らず※、1978年4月にキングレコードへ移籍し「榊みちこ」に改名。同年8月、シングル「スパイラルワールド」で大きくイメチェンして再デビュー。

オリコンチャート・ブック(1968-1997年)には記録がないため、週間チャートで100位以内に一度も入っていない。

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続いて、1979年1月にシングル「I.I.YO,I.I.YO」、さらに1980年2月、シングル「日記(ポチと鶏)」リリース。

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私生活では、1981年に、「花はおそかった」など60年代に多くのヒット曲を持つ歌手「美樹克彦」と結婚。1984年7月に、夫・美樹克彦と小林幸子によるデュエット曲「もしかしてPARTII」の歌詞を提供。

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「もしかしてPARTII」は、第26回日本レコード大賞にて金賞を受賞する。しかし、その後、美樹克彦の弟子の女性との不倫が発覚し、1985年に離婚。

こうして振り返ると、東北の素朴さを残した「田中美智子」と垢抜けた都会人の「榊みちこ」は全くの別人のように思える。自分と同じく、昔の田中美智子のままでいて欲しかったと思っているオールドファンも多いようだ。

田中美智子」は、自分の中で輝き続ける永遠のアイドルとして、「北へ向かって」と共に70年代の心の玉手箱にしまっておくことにしよう。


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〜夏の風物詩で炸裂する「阿久悠」節vs「筒美京平」の先進ディスコ調アレンジ…両巨匠による第2次戦争勃発?!〜麻丘めぐみ/夏八景(1976年6月)

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「夏八景」は、1976年6月5日に発売された麻丘めぐみの16枚目のシングル。

 麻丘めぐみは、子役時代からの芸能活動を経て、1972年、16歳の時「芽ばえ」(作詞:千家和也、作曲:筒美京平)でアイドル歌手デビュー。すると、いきなりオリコンチャート最高3位、売上数40万枚を超えるヒットとなり、第14回日本レコード大賞では最優秀新人賞を受賞。

さらに、彼女のトレードマークであった「お姫様カット」がブームとなり、清楚な正統派アイドルとして人気を博し、1973年7月、5thシングル「わたしの彼は左きき」(作詞:千家和也、作曲:筒美京平)がオリコンチャート週間1位、50万枚を超える売上を記録する大ヒット。第15回日本レコード大賞・大衆賞や第4回日本歌謡大賞・放送音楽賞を受賞し、同年の『第24回NHK紅白歌合戦』にも出場する。

その後も、軽快なサウンド筒美京平と、少女性や女の子のイメージを強く押し出した詞の千家和也のコンビでヒット曲を連発し、"演歌のビクター"と言われ演歌勢が主流だった当時のレコード会社の中で颯爽とアイドルポップス路線を切り拓いた。

だが、11thシングル「水色のページ」を最後に、アイドル人気も下降線を辿り、オリコン20位以内や売上10万枚を超えるヒット曲が出なくなった。13thシングル「美しく燃えながら」では初の演歌調曲に挑戦したり、15thシングル「卒業」では作曲家に元ブルーコメッツ井上忠夫を起用したりするなど、この頃は、少女性を脱して大人になった麻丘めぐみの曲の方向性を模索していた時期と思われる。

そんな中での16thシングル「夏八景」、麻丘めぐみの初代ディレクターで途中から岩崎宏美の担当に代わっていた人物が本作品より復帰。起死回生を狙って、作曲には9thシングル「悲しみのシーズン」以来、約2年振りの筒美京平、作詞には岩崎宏美担当時代に付き合いのある阿久悠をキャスティング。これにより、麻丘めぐみでは初の筒美京平&阿久悠の両巨匠によるジョイント曲が誕生する。


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 作詞:阿久悠、作曲・編曲:筒美京平

「夏です どなたもうきうき夏です 夕立ちあとの 蝉しぐれ

虹です 突然大きな虹です 相合傘の終りです

花火がポンとはじけた時 くちびる盗んで行ったひと

ビキニの胸をかくした時 キュートでいいよといったひと

夏はいろいろです ほんとに 夏はいろいろです ほんとに

 夏です いたずら気分の夏です 気楽に泳ぐ熱帯魚

恋です夜明けにゆれてる恋です つめたい海で はしゃぎます

危険にさせるお酒に酔い サンダル脱ぎすて 千鳥足

踊りに熱が入った時 フレアのスカート舞い上がる

夏はいろいろです ほんとに 夏はいろいろです ほんとに

 いきなり誰か肩を抱いて やさしくささやく 色っぽいね

何度か逢って ポツンという 心の底から ほれちゃった

夏はいろいろです ほんとに 夏はいろいろです ほんとに」

 🎵どなたもうきうき夏です…🎵

      普通の作詞家なら、「どなた」なんて詞はまずあり得ない(笑)。いきなり「阿久悠」節炸裂!

 🎵花火がポンとはじけた時 くちびる盗んで行ったひと🎵

🎵ビキニの胸をかくした時 キュートでいいよといったひと🎵

🎵踊りに熱が入った時 フレアのスカート舞い上がる🎵

🎵いきなり誰か肩を抱いて やさしくささやく 色っぽいね🎵

     随所に日本の夏の風物詩を散りばめつつ、男女のロマンスを明るく多少の「ハレンチ」なタッチで表現した詞はさすがで、阿久悠節全開と言ったところか?

また、久し振りにテレビで見る麻丘めぐみは、ふっくらとした大人の女性に変貌しており、甘え声として絶妙に活かされた低めの声質と、ちょっと無理をして出す高音の「泣き節」が冴えわたり、腕を回すシンプルな振りを使って、癖のある阿久悠節を上手く歌いこなしている。

しかし、改めて「夏八景」のシングル盤を聴いてみて驚いた。


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 テレビ映像では全く気付かなかったのだが、シングル盤では筒美京平のディスコ調アレンジが強烈に自己主張しているのである。

この頃の筒美京平の楽曲はディスコ調ポップスへと急激にシフトしており、「夏八景」は同じく筒美京平阿久悠のコンビによる岩崎宏美の「ファンタジー」や「未来」の流れを汲んでいる。

しかし、ディスコ調メロディーと親和性のある「ファンタジー」や「未来」の歌詞とは異なり、「夏八景」はどちらかと言えば演歌が似合いそうな歌詞である。

筒美京平の緻密なアレンジは、自身によるディスコ調のメロディーのパワーを最大限に引き出しているものの、かえって阿久悠の歌詞と喧嘩しているかのようだ。

だが、両巨匠による主張のぶつかり合いによって生み出されたミスマッチ感が逆にこの曲の存在感を際立たせているとも言える。

 以前のブログで、岩崎宏美の「私たち」と「ロマンス」のA面争いが、作曲家「筒美京平」と作詞家「阿久悠」の両巨匠による争いではないかと述べた。

www.seisyunkayou.com

 今度は、麻丘めぐみの「夏八景」に舞台を変え、両巨匠による第2次戦争が勃発したようにも思える。

 「夏八景」は、オリコン最高64位、売上数2.1万枚※にとどまり、麻丘めぐみ人気の下降線に歯止めをかけることはできなかった。麻丘めぐみは翌年の1977年6月、フジテレビ社員のディレクター渡邉光男と結婚し、周囲の反対を押し切って芸能界を引退。

※1968-1997オリコンチャートブックによる

「夏八景」での両巨匠による争いは、ほとんど話題に上ることもなく、曲と共にひっそりと消え去って行ったが、両巨匠による主張のぶつかり合った「夏八景」は麻丘めぐみの歌手活動の中で一瞬キラリと光る線香花火のような存在感を発揮したのではないだろうか?

〜のど飴で早められた?アイドル脱皮計画〜柏原よしえ/㐧二章・くちづけ(1981年10月)

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「㐧二章・くちづけ」は、1980年10月25日に発売された柏原よしえの3枚目のシングル。

柏原よしえは、1979年(昭和54年)秋に日本テレビ系『スター誕生!』にて清水由貴子の「お元気ですか」を歌って合格。その後グランドチャンピオンになり、14歳(中学3年生)の時にシングル「No.1」でデビュー。なお、本名は「かしはら」と呼ぶ。

1980年デビューといえば、松田聖子河合奈保子岩崎良美などと同期。この中でも、柏原は人気番組『スター誕生!』のグランドチャンピオンであり、当時のキャッチフレーズ※から見ても、周囲の期待は高かった。このため、スタ誕先輩の桜田淳子岩崎宏美のように、阿久悠プロデュースによる「アイドル育成計画」が練られていたように思われる。

※「ちょっと大物、夏ひとりじめ。よしえはNo.1。」

デビュー曲「No.1」(80年6月1日発売)、2ndシングル「毎日がバレンタイン」(同年9月5日発売)の作詞はいずれも阿久悠が担当し、いかにもアイドルらしいタイトルで、アイドル路線の滑り出しは順調。

だが、2ndシングルが発売された翌月の同年10月、すなわちデビューから僅か4か月後に、もうアイドル脱皮とも思える「㐧二章・くちづけ」が始まってしまう…

ちなみに、桜田淳子の場合、この「㐧二章・くちづけ」に対応するのは、出だしの「口づけ」の歌詞が印象的な「はじめての出来事」と思われるが、デビューから1年半以上も経った8枚目のシングルである。

アイドル歌手としてのイメージが定着する前の時期で、しかも、2ndシングルから僅か1か月足らずでの3rdシングル発売は、常軌を逸しているように思う。

これは、本楽曲がのど飴「コルゲンコーワトローチ」のCMソングに採用されたことに関係しているのかも知れない。

このCMでは、柏原よしえが左右の人差し指を合わせて「好~き♪好き・好き・好き・透きとおぉ~った時間のなか~で~」と本楽曲を歌い、トローチを持って「喉がスッとするから好き!コルゲントローチ」と宣伝するもので、当時テレビで何度も流れており、やたらと印象に残っている。また、この楽曲は、1980年デビュー新人賞レースの各音楽番組で披露されることも多かった。このためか、柏原よしえの初期の代表曲として、実際のオリコン順位※※よりも、ずっとヒットしていた印象が強い。

※※オリコンチャート最高49位、シングル売上数4.5万枚(1968-1997オリコンチャートブックによる)

作詞・作曲は、「時の過ぎゆくままに」・「勝手にしやがれ」・「サムライ」・「ダーリング」・「カサブランカ・ダンディ」等の70年代沢田研二の大ヒット曲を生み出した、阿久悠大野克夫コンビが担当。この沢田研二の最強のコンビが80年代にアイドル歌手の楽曲も提供していたのはちょっと意外だったが、今聴いてもなかなかの名曲だと思う。

作詞:阿久悠、作曲:大野克夫

「好き 好き 好き 好き   透きとおった時間の中で

自然に流れて行くのが 好き 好き

ラジオのボリュウムを少ししぼって   夜の気配(けはい)を部屋に入れたの

私がもう少しポップであったら    それで全(すべ)てがきまるでしょうが

How to love How to kiss   第二章 くちづけ アアア…

How to love How to kiss   第二章 くちづけ アアア…

 

好き 好き 好き 好き   透きとおった時間の中で

自然に流れて行くのが 好き 好き

初めてこの部屋に入れたあなたは   少し緊張してたみたいね

いつもは悪ぶったこともいうのに   いい子ぶったり それがカワユイ

How to love How to kiss   第二章 くちづけ アアア…

How to love How to kiss   第二章 くちづけ アアア…

好き 好き 好き 好き   透きとおった世界を見つめ

やさしく揺られているのが 好き 好き

How to love How to kiss   第二章 くちづけ アアア…

How to love How to kiss   第二章 くちづけ アアア…」

歌詞については、彼を自分の部屋に初めて入れた後は、How to本で色々勉強した知識よりも、自然の流れのままに身を任せるのが良いという意味だと解釈。 

その後、柏原よしえは、7枚目のシングル「ハロー・グッバイ」(81年10月発売、アグネス・チャンの75年シングル・B面のカバー曲、歌詞のモデルは南こうせつ実家の喫茶店)が約40万枚売上げてブレイクを果たす。翌年の82年10月には、シングル「花梨」(作詞作曲:谷村新司)の発売と同時に、本格的にアイドル脱皮宣言して本名と同じ柏原芳恵に改名。

当時の皇太子浩宮様も大ファン。その一方で、''仙台空港こけし事件''のような脱アイドルを裏付ける事件も…

さらに、「春なのに」(83年1月発売)、「カム・フラージユ」(83年12年発売)、「最愛」(84年9月発売)など、中島みゆきが書き下ろした作品を中心にヒットを重ね、80年代前半の間にトップ10入りした楽曲は何と18作品!いずれも「㐧二章・くちづけ」以降である。ちなみに、桜田淳子は「はじめての出来事」以降にトップ10入りした楽曲は13作品。

柏原よしえの場合、早めのアイドル脱皮計画が結果的には功を奏したようだ。 


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〜オリビアが運んできた春のそよ風?〜春の予感-I've been mellow-/南沙織(1978年1月)

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「春の予感-I've been mellow-」は、1978年1月21日に発売された南沙織通算25枚目のシングル(発売元はCBSソニー)。

本楽曲は、シンガーソングライターの尾崎亜美が他のアーティストに楽曲提供した初めての作品にあたる。なお、尾崎は同年11月5日に杏里に「オリビアを聴きながら」の楽曲も提供している。

「春の予感-I've been mellow-」は、資生堂・春のキャンペーン・ソングに採用され、東京音楽祭ゴールデンカナリー賞作詞賞を受賞。オリコン最高25位、売上枚数7.6万枚のスマッシュヒットとなった※。

※1968-1997オリコンチャートブックによる

この曲を初めて聴いた時、曲名と歌詞にある"mellow"が気になり、オリビア・ニュートン・ジョンの「そよ風の誘惑」が頭の中をよぎったことを覚えている。

「そよ風の誘惑」(1975年1月発売)には、"Have you never been mellow(穏やかなひと時を過ごせている?)"という問いかけのような歌詞があり、「春の予感」の「I've been mellow(私はここのところリラックスしているよ)」の歌詞がそれに対するアンサーのように思えたからである。

作詞・作曲・編曲:尾崎亜美

「ひにくなジョーク追いかけるのは  もうおしまいにしましょう

頬杖つく二人のドラマ  ワインに揺られて

春の予感 そんな気分  時を止めてしまえば

春に誘われたわけじゃない

だけど気づいて  I've been mellow

 

グラス越しにあなたの視線  感じて心波立つ

今なら素直にあなたの胸に  飛びこめそうなの

春の予感 そんな気分  いつもと違うでしょう

春に誘われたわけじゃない

だけど気づいて  I've been mellow」

 尾崎亜美が杏里に提供した「オリビアを聴きながら」の「オリビア」とは、「そよ風の誘惑」を歌っていたオリビア・ニュートン・ジョンのことであり、当時、尾崎亜美は曲作りにあたってオリビア・ニュートン・ジョンの影響を受けていたものと思われる。

同じオリビアの影響を感じさせる両曲であっても、「春の予感-I've been mellow-」は恋愛のプロローグ感を漂わせているのに対して、「オリビアを聴きながら」は恋愛のエピローグを感じさせ、両者が真逆な物語となっているのが興味深い。

 久し振りにこの曲を聴いてみて、そよ風に靡いているような南沙織の美しい髪が印象に残るとともに、歌い方が普段の南沙織と違うことが気になった。2006年当時の本人の解説によると、レコーディングでは「沙織節」にならないよう歌い方を厳しく指導されたらしい。

 穏やかな春の陽気に包まれ、そよ風とともに彼の胸に飛び込もうとする可愛い主人公の女性を演じようとしていたのかもしれない。


南沙織「春の予感」

〜キッズソングの裏に隠された大人へのメッセージソング?〜およげ!たいやきくん/子門真人(1975年12月)

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 「およげ!たいやきくん」は、フジテレビ系子供向け番組『ひらけ!ポンキッキ』のオリジナル曲として1975年12月25日にキャニオン・レコードから発売され、初登場から11週連続で1位を記録。トータル売上枚数は453.6万枚に達し、オリコン歴代シングル盤売上1位を誇る。

この曲を歌った子門真人はこれ程のメガヒットになると思わずレコード会社と買取契約を結んでしまったため、売上げに応じた歌唱印税は支払われず、僅か5万円の支払いにとどまったのは有名な話。

子門真人は、当時、特撮テレビドラマ『仮面ライダー』の主題歌や、SFアニメ『科学忍者隊ガッチャマン』の主題歌など、幾多ものアニメソング・特撮ソングを歌い上げて、次々とヒットを飛ばしていた。「およげ!たいやきくん」も、アフロヘアーに丸メガネという出で立ちに似合わぬ、歯切れの良い二枚目的な声が印象に残っていたが、自分では単なる子供向けソングと思っており、歌謡曲とは見なしていなかった。※

むしろ、同時期にヒットしていた太田裕美木綿のハンカチーフ」が代表的な昭和歌謡として好きだったのだが、週間オリコンランキングで「およげ!たいやきくん」に勝てず、いつも2位止まりで悔しく思っていたことを覚えている。

当時は、消費税はまだ導入されておらず、代わりに物品税があって、生活必需品以外の贅沢品には5~30%税金が掛けられていた。「およげ!たいやきくん」が物品税法上、課税対象の歌謡曲扱いか、非課税の童謡扱いかで大騒動になったが、1976年2月に国税局により童謡であるとの正式判断が出されたため物品税は免除された。物品税上も歌謡曲では無かったことになる。

 さて、ここからが本題であるが、「およげ!たいやきくん」が、ここまで爆発的な大ヒットを飛ばしたのは、単なる子供向けソングや童謡ではなく、その子供たちの親の「団塊の世代」にも共感を呼んだことにあるようだ。「団塊の世代」とは、出生率が急上昇した第1次ベビーブームの昭和22年(1947年)~24年(1949年)生まれで、3年間の出生数は800万人を超えていた。「およげ!たいやきくん」がヒットした1976年当時、この世代は30歳手前で、日本の未来を支えるサラリーマンとしてモーレツに働かされていた。歌詞は、そんなサラリーマンの心境を代弁した内容にも読み取れる。

すなわち、「およげ!たいやきくん」は、発売当時、第2次ベビーブームの「団塊ジュニア」(1970~75年生まれ)の子供達だけでなく、その親の「団塊の世代」の大人にもメッセージを送っており、第1次ベビーブームと第2次ベビーブームの双方の大きな人口層に訴えたことが大ヒットの要因ではないだろうか。

作詞:高田ひろお   作曲:佐瀬寿一

「まいにち まいにち ぼくらは てっぱんのうえで やかれて いやになっちゃうよ→会社の歯車としての立場に嫌気がさすサラリーマンの心境
あるあさ ぼくは みせのおじさんと けんかして うみに にげこんだのさ→上司と喧嘩して会社を辞めてしまう
はじめて およいだ うみのそこ とっても きもちが いいもんだ→脱サラし、自分の力で自由に生きる生活を送る
おなかの アンコが おもいけど うみは ひろいぜ こころがはずむ→借金や養わなければならない家族の負担があるが、自由を謳歌する
ももいろサンゴが てをふって ぼくの およぎを ながめていたよ→飲み屋の女の子たちが新たな生き方を応援してくれる
まいにち まいにち たのしいことばかり なんぱせんが ぼくの すみかさ→会社務めでは味わえなかった楽しさがあるが、安アパートに住む
ときどき サメに いじめられるけど そんなときゃ そうさ にげるのさ→借金取りには逃げながら、処世術を身につける
いちにち およげば ハラペコさ めだまも クルクル まわっちゃう→ただし、生活していくのは簡単ではない
たまには エビでも くわなけりゃ しおみず ばかりじゃ ふやけてしまう→たまには良いものを食べないと体を壊してしまう
いわばの かげから くいつけば それは ちいさな つりばりだった→投資話のような罠に引っ掛かってしまう
どんなに どんなに もがいても ハリが のどから とれないよ→やはり、運命には逆らえない

はまべで みしらぬ おじさんが ぼくを つりあげ びっくりしてた

やっぱり ぼくは タイヤキさ すこし こげある タイヤキさ→所詮、会社組織の中でしか生きられない人間だと悟る
おじさん つばを のみこんで ぼくを うまそうに たべたのさ」→悲しい結末で終わり、現実の残酷さを痛感する

曲を 改めて聴いてみると、この悲しい結末を暗示するような哀愁漂う切ないイントロが心に染み入る。

たいやきは、あくまでも食べられてしまうもので、結局、たいやき以外の何者にもなり得ない。主人公も、所詮、サラリーマンとしてしか生きてゆけないということなのか…

当時は今とは異なり、終身雇用が当たり前の時代。サラリーマンにとって「会社」は「寄らば大樹の陰」で居心地の良い場所。食べられる、という悲しい結末も、脱サラしても無理、会社の中でしか生きられない、という現実の厳しさを教えていたのだろうか。

サラリーマンの悲哀、人生の悲哀を感じさせる、実に深みのある歌といえる。 


子門真人「およげ!たいやきくん」

 なお、「およげ!たいやきくん」のアンサーソングとして、山本リンダによる「私の恋人、たいやきくん!」(作詞:中山大三郎 作曲:穂口雄右 編曲:あかのたちお)も発売されている。

下の動画は、「およげ!たいやきくん」を歌い終えた子門真人とのツーショット映像である。

歌詞は、海に飛び出したたいやき君を追って、恋人のたいやきさんが海に出ていくという展開から始まる。最後は、しっぽが切れてしまって結局たいやき君に会えないたいやきさんが、たいやき君の末路を知って「おじさん私もすぐに食べてよ。お腹の中で会えるから」という、こちらも哀しく切ない結末である。


山本リンダ「私の恋人、たいやきくん!」

〜拓郎の青春の思い出までも運んでしまった街〜風の街/山田パンダ(1975年6月)

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1975年6月23日に発売された、山田パンダ(元「かぐや姫」)のシングル。本曲は、1975年に放送されたTBS系テレビドラマ『あこがれ共同隊』の主題歌として制作された。 

あこがれ共同隊

このドラマは、当時にわかに脚光を浴びはじめた東京の原宿・表参道を舞台に、現代(当時)の若者たちの青春の生きざまを描いたもの。主人公の八田広介(郷ひろみ)は、ファッション雑誌を読んで一流デザイナーを目指している。畠山竜也(西城秀樹)は酒屋の息子。不治の病に冒され、ジョギング中に発作を起こし、池にはまって命を落としてしまう(第7話までの出演)。畠山竜也の恋人役として桜田淳子がドラマ初主演。第1回には山口百恵もゲスト出演した。主題歌を歌った山田パンダも、原宿のジャズ喫茶(ペニーレイン)のマスター役でレギュラー出演。また、本曲の作曲者である吉田拓郎を始め、南こうせつ伊勢正三、イルカ、りりィ、かまやつひろし等、当時の人気フォークソング・アーティストも多数ゲスト出演した。

新御三家」と「花の高二トリオ(当時)」の夢の共演

信じられないような豪華キャスト

出演:郷ひろみ西城秀樹桜田淳子山口百恵(第1回のみ)・三田佳子森本レオせんだみつお田中邦衛黒柳徹子長門裕之大和田伸也、・シェリー ・浅田美代子・ 高橋昌也 ・黒沢久雄 ・常田富士男山田パンダ吉田拓郎・加藤小夜子・玉川良一etc.


風の街「あこがれ共同隊」

茶店「ペニーレイン」は、『原宿ペニーレイン』

「あこがれ共同隊」の中に毎回登場する喫茶店「ペニーレイン」は、『原宿ペニーレイン』。ビートルズの曲を店名にし、常にビートルズの曲が流れ、フォークシンガーやファッション関係者、アーティストといわれる人たちが多数集まることで知られていた店だ。なお、『ペニーレイン』はその後、客層の変化などに伴い、その役割を終えたかのように1990年に閉店したが、2006年に、同じ建物内の「ライムライト」をリニューアルし、再オープンしている。

f:id:YOSHI88:20201113131455j:plain現在のペニーレイン

山田パンダ「風の街」

「あこがれ共同隊」の主題歌、山田パンダ「風の街」(作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎、編曲:瀬尾一三)は、1970年代前半の人気アイドルスターなどが多数出演した話題性もあって、ヒットチャート20位以内にランクされるスマッシュヒットを飛ばした。※

また、本曲の作曲者吉田拓郎は、翌年の1976年に制作したオリジナルアルバム『明日に向かって走れ』にてセルフカバーしている。

なお、余談だが、ソロデビュー前の山下達郎は、山田パンダが歌う「風の街」のレコーディングにバックコーラスとして参加している。この時、この曲のプロデューサー・吉田拓郎にコーラスの歌唱指導をされて以来、拓郎とは一回も口を聞いたことがないと話している。

オリコン最高19位  売上枚数12.1万枚(1968-1997オリコンチャートブックによる)

作詞:喜多條忠   作曲:吉田拓郎   編曲:瀬尾一三

「道のむこうで 手を振った 大きな声で サヨナラ言った

あいつをふと 思い出す 今も元気で いるだろか

白い仔犬を 抱きあげる 君はちょっぴり 幼く見える

表参道 原宿は

なつかしすぎる 友達や 人に言えない 悲しみすら

風が運んで しまう街

 空に昇って 消えてゆく 子供の赤い 風船一つ

遠い昔の 思い出が 空にポツンと 消えてゆく

僕の名前を 呼ぶ時の 君はちょっぴり 大人に見える

表参道 原宿は

なつかしすぎる 友達や 人に言えない 悲しみすら

風が運んで しまう街

 なつかしすぎる 友達や 人に言えない 悲しみすら

風が運んで しまう街」

🎵表参道・原宿は〜🎵

 10代の頃、この曲や水谷豊の「表参道軟派ストリート」(作詞:阿木燿子・作曲:宇崎竜童、1978年3月発売)を聴きながら、東京の表参道や原宿に漠然とした憧れを抱いていた。

🎵子供の赤い風船一つ🎵

 「赤い風船」と言えば、ドラマにも出演した浅田美代子の唄を思い出すが、僕は、同じ喜多條忠の作詞で、新御三家のもう一人野口五郎が歌っていた曲を思い出した。

曲名は、「風の街」ならぬ、「風の駅」。途中に「赤いサンダル」が出てくる。以前、ブログでも取り上げた。

www.seisyunkayou.com

 🎵なつかしすぎる友達や人に言えない悲しみすら風が運んでしまう街〜🎵

吉田拓郎は、『原宿ペニーレイン』で、仲間たちと会って酒を交わし、青春や人生について語り合った。ペニーレインは、自分のちっぽけさ、無力さを理解した上で、酒を飲みながら、ちょっとだけ意地を張り通せる自由な空間だった。

吉田拓郎は、「ペニーレインでバーボンを」(1974年)で、♪原宿ペニーレインで飲んだくれている。ペニーレインでバーボンを〜♪と歌い、世の中に対する屈折した思いを吐露している。

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吉田拓郎が愛したペニーレインだったが、原宿界隈の街の変化はやたらと早く、1977年には歩行者天国が開始され、80年頃には竹の子族も誕生した。街の姿が一気に変わり、街全体がキッズタウン化してきた。

10年後の1984年に、吉田拓郎は、「ペニーレインへは行かない」という曲をリリースした。

♪懐かしさだけを追いかけたって  君の失ったものは帰らない。こぶしをふるわせバーボンをあおっても わかってもらえない切なさが残るだけ♪

 ♪僕が知っている風景はいまはもう 原宿あたりにも 心の中にもない。だから だからペニーレーンへは もう行かないよ♪

と自分の無力感を歌い、原宿の街と決別した。

還暦を過ぎた今、改めてこの曲を聴いて人生を振り返ってみると、サビの「懐かし過ぎる友達や人に言えない悲しみすら風が運んでしまう街」の歌詞が心に染み入り、懐かしさと切なさが入り混じった複雑な気持ちにさせられる。

久しぶりに表参道・原宿の街を散歩してみたが、昔よく行った街角のバーは、外資の大型店舗にビル毎建て替えられ、お気に入りの店は跡形もなく駐車スペースと化し、行きつけのレストランはコロナ禍で閉店し画一化したチェーン店になっていた。昔の頃のようなう若者たちを惹きつける何かが失われ、抜け殻だけが残った街のように思えた。

この街は、「懐かし過ぎる友達」や「人に言えない悲しみ」だけでなく、青春時代の思い出までも何処かへ運んでしまった街なのか…


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