1977年3月1日にCBSソニーよりリリースされた清水由貴子のデビューシングル。
1976年2月、日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』の第16回決戦大会で、イルカの「なごり雪」を歌唱し、芸能プロダクション、レコード会社合わせて何と14社からスカウトのプラカードが上がる。この決戦大会には、後にピンク・レディーとなる根本美鶴代と増田恵子の二人もお揃いのオーバーオールを着用しフォーク曲を歌って合格していたが、清水由貴子は彼女らをおさえての堂々のグランドチャンピオンだった。
野球で言えば、清水由貴子が複数球団競合末に入団したドラフト1位の大型新人、ピンク・レディーがドラフトの下位指名の無名新人と言ったところか。
当時、新人賞レースの有力候補には、少しでもお茶の間の知名度を上げるため、その年の前半にデビューさせる慣行があったようだ。清水由貴子の場合、その年のデビューは準備不足のため見送られ、翌年の1977年3月1日に、作詞:阿久悠、作曲:三木たかしのゴールデンコンビで万全を期してのデビュー。
哀愁感漂う三木たかし独特のメロディーに、想いの人の健康を気遣う手紙のような内容の歌詞を載せ、自らもフォークギターを弾きながら歌うというスタイル。清水由貴子の甘い歌声と、素朴で優しい人柄が相まって、聴き手の心を惹きつける名曲。
なお、下の動画は、一見フォークデュオのようだが、同時期(1977年3月25日)に「硝子坂」(作詞島武実、作曲宇崎竜童)でデビューした高田みづえと一緒に出演した時のもの。
作詞:阿久悠
作曲:三木たかし
「お元気ですか 幸福ですか お返事下さい 気にしています
夜ふかしぐせは いけないのです 若さがどんどん なくなるのです
私にとって あなたはとても とても大事な ひとですから
お願いです お願いです お元気で そしてまた 逢いに来て下さい
お元気ですね 幸福ですね お返事ないのは そうなのですね
毎日何か 夢中になって 手紙を書くまが なくなるのでしょう
私はだけど ちょっぴり不幸 不幸感じて 悩んでいます
お願いです お願いです お元気で そしてまた 逢いに来て下さい
私にとって あなたはとても とても大事な ひとですから
お願いです お願いです お元気で そしてまた 逢いに来て下さい」
この曲は、オリコンチャート最高30位、8.2万枚を売るスマッシュヒットとなった。しかし、全体的にまとまり過ぎて強いインパクトに欠けていたのか、『日本レコード大賞』の新人賞(5人枠)争いでは、清水健太郎、高田みづえ、狩人の順で新人賞受賞が確定する中、続く受賞者を決める上位2名での決選投票で太川陽介に破れた後、最後の1枠を巡って榊原郁恵と再び決選投票となり、僅差で受賞を逃すこととなった。
一方、あまり期待されていなかった(笑)ピンク・レディーの場合は、合格から約半年後の1976年8月25日のデビューであり、新人賞レースを争うには遅すぎたにもかかわらず、「ペッパー警部」という斬新なタイトルと、大胆に太ももを開いたりする激しくセクシーなダンスで、その年の暮れに向けて一気に売上げを伸ばし、76年末の日本レコード大賞新人賞の5組にも滑り込む。翌77年に掛けても売れ続け、最終的には60万枚のロングヒットとなり、清水由貴子とは対照的な結果となった。
『スター誕生!』の決戦大会では、共にフォーク調の曲を選んで素朴なイメージの両者だったが、ピンク・レディーはデビュー時の大胆なイメチェンがハマったのに対して、清水由貴子の方は正攻法で行き過ぎたか…?
「お元気ですか」の後も、コンスタントにシングルはリリースされていたが、これといったヒットには恵まれず、萩本欽一や、同じレコード会社の杉良太郎の後押しもあって、次第に活躍の場をテレビドラマやバラエティ番組に移していった。歌手としてはシングル10枚、アルバムを2枚リリース。
2009年4月、ショッキングなニュースが流れた。母親の介護疲れのためか、清水由貴子は自ら人生の幕を閉じてしまったのである。デビューから30年余り経過し、母親の介護以外にも、芸能界での仕事、所属事務所との関係、宗教等、心の奥に色々な悩みを抱えていたのだろう。
現在、改めて、デビュー曲の「お元気ですか」を聴いてみると、
🎵お元気ですか 幸福ですか
🎵夜ふかしぐせは いけないのです 若さがどんどん なくなるのです
🎵私はだけど ちょっぴり不幸 不幸感じて 悩んでいます
等、何やら意味深な歌詞が並んでいる。
そして、サビの部分の🎵お願いです お願いです お元気で
の懇願調の歌詞…
「お元気ですか」は、片想いの人に宛てた手紙ではなく、30年後の自分に対して健康を案じて問いかけた手紙か日記のようにも受け取れる。
しかし、阿久悠の歌詞は、何十年経っても奥深い。